名護市勝山にある泊手系の史跡「松茂良興作隠棲屋敷跡碑」をご紹介します|沖縄伝統空手道振興会
名護市
名護市勝山の山深い林道の脇に、ひっそりと石碑が立っています。刻まれた名は「松茂良興作(まつもら こうさく)隠棲屋敷跡」。そこは、沖縄空手の三大源流のひとつ、泊手(とまりて)を後世に伝えた「泊手中興の祖」と称えられる人物が一時居を構えていた地。
松茂良興作は1829年(文政12年)、現在の那覇市泊にあたる泊村に、士族の家系の子として生まれました。泊は港町として外国文化の影響を受けやすい土地柄であり、若き興作はここで「手(てぃ)」の修行に打ち込みます。王府に仕えることなく在野の武術家として生き、実戦的で鋭い技を磨き上げた姿は、当時の沖縄でも異彩を放っていました。
壮年期には泊周辺で後進の指導にあたり、衰えかけていた泊手を再興・発展させます。その人柄もまた多くの人々を引きつけました。横暴な薩摩藩士が村人に乱暴を働いた際、興作が一人で立ち向かい武術で制したという伝説が残っており、「武の力は人を守るためにある」という精神を体現した義侠の人として今も語り継がれています。
興作の教えは、後の沖縄空手史を形づくる人物たちへと受け継がれました。実戦空手の象徴として知られる本部朝基(もとぶ ちょうき)は泊手の技法をここから学び、また糸洲安恒(いとす あんこう)もその思想的影響を受けたとされます。糸洲は後に空手を学校教育へ導入し、沖縄空手を広く社会へ普及させた最大の功労者のひとりです。松茂良興作の系統は、少林流・少林寺流・松林流など、沖縄空手の源流の一角を今も確かに形成しています。
名誉や地位を生涯求めることなく、静かに武と向き合い続けた興作は、1898年(明治31年)に69歳でその生涯を閉じました。晩年を過ごしたこの勝山の地に建てられた隠棲屋敷跡碑は、華やかな顕彰とは一線を画す、いかにも興作らしい静けさをたたえています。
沖縄空手の歴史をひもとくとき、首里手・那覇手と並んで泊手の名が挙がります。その泊手がいまも息づいているのは、この地で武の心を貫いた一人の人間がいたからです。石碑の前に立ち、那覇の港町から勝山の静寂へと至った武人の生涯に、しばし思いを馳せてみてください。



